「バレンタインデー」  今日はバレンタインデーで、世の男達は一喜一憂しているのだろうけど、藤次郎は例年 通り、一人寂しく帰宅の途についていた。  本当なら、今年は長らく通信が途絶えていた、元彼女の玉珠と奇跡的な再会を果たした ので玉珠からのバレンタインデーのチョコレートを期待できるバズであったが…  「…ごめんね。今日会社の飲み会で…」  との前日の電話での一言で、当てがはずれてしまった…見事に玉砕した藤次郎は、仕事 が捗らずに残業し、会社の事務の女性から頂いた義理チョコを握りしめて寂しく会社を後 にした。  その日はなぜかいつも通過するはずの玉珠が乗り換えるターミナル駅で降りて、逢える はずもない玉珠の幻影を追うかのように、駅の周辺でフラフラと歩いて買い物をして、た め息混じりに駅に戻った。  藤次郎はホームの階段を上り終えた瞬間、突然何かにグイと腕をつかまれ、柱の陰に引 きずり込まれた。驚いた藤次郎が引きずり込んだ人物を見ると、そこには紅い唇に人差し 指を当ててて片目をつぶっている玉珠がいた。それを見て、藤次郎は仰天したが、藤次郎 は玉珠が訳ありなことを悟り、  「…どうした」 と、小声で聞いた。  「藤次郎、丁度よかった。追われているの。匿って」  藤次郎はそれを聴いて、玉珠を覆い隠すように立ちはだり、玉珠をそっと抱きしめるよ うにして、玉珠の耳に口を近づけ、  「なんで、追われている?」  事の次第が納得いかないので、藤次郎は言った。  「会社の飲みの二次会にしつこく誘われて困っているの…」  困った表情で言う玉珠に藤次郎は無言で頷くと、自分の着ていたコートを玉珠に羽織わ せて、ついでに自分の被っていた帽子を被せて自分は玉珠に背を向けて立ちはだかり後ろ に匿った。玉珠は藤次郎の帽子を深く被り、コートの襟を立てて顔を隠しつつ、藤次郎と 背中合わせになった。  そこに、玉珠を探しに来たと思われる玉珠の会社の人が来たので、  「やぁ」 と、藤次郎は通りかがった玉珠の会社の顔なじみに声をかけた。  「あっと、萩原さん今晩は」  突然藤次郎から声を掛けられた事に驚いて、玉珠の会社の人は藤次郎に目を見張ったが、 すかさず、  「あれ?萩原さん、トレードマークの帽子は今日は被っていないのですか?」 と、藤次郎がトレードマークである帽子を被っていないことを指摘した。藤次郎の背後で は玉珠が「馬鹿!」と怒鳴りそうになるのを堪えていた。  「…ああ、今日は忘れました」 と言って、とぼけて藤次郎は自分の頭に手をやった。  「ああ…そうでしたか…急いでいますので、それじゃ」 と言って、立ち去ろうとする玉珠の会社の人の気配を感じて、藤次郎と玉珠は安堵の息を ついた…しかし  「あれぇ?」 と言いながら、突然藤次郎の背後を覗き込み、  「トレードマークの帽子が…」 と言いつつ、玉珠の被っていた藤次郎の帽子を取り上げると、玉珠と目が合ってしまった。  「あっ居たぁ…」  「バカァ、見つかったじゃないの!」  小声ながらも、玉珠の怒気に  「ゴメン…」 と小さくなる藤次郎であったが、その二人のやりとりを見て玉珠の会社の人は、しばらく 思案顔をしていた。そして、  「まぁ、萩原さんと合流してしまったのでは…今日という日もありますし、ここは見逃 します」 と言って、機転を利かせてくれた。  「すみませんね…」  本当に済まなそうに藤次郎が言うと、  「なに、部長がこんな日に飲み会のセッティングをするのが悪いのですよ。私も早く帰 って女房にチョコレートもらいたいですから」 と言って、玉珠の会社の人は笑って去っていった。  藤次郎は玉珠を連れて自分のアパートに連れて行った。  アパートに着くなり、玉珠はトイレに駆け込んだ。藤次郎は「我慢してたんだ…」位に しか思わなかった。  やがてトイレから玉珠が出てくると、  「藤次郎…」 とテーブルに着くのももどかしげに、モジモジして手元のバックを探る玉珠を尻目に藤次 郎は玉珠にコーヒーを出しながら、  「何?」 と言った。  「はい、バレンタインのチョコレート…」 と言って、玉珠はおずおずと藤次郎に包みを差し出した。  「くれるの?」  藤次郎は内心飛び上がって喜びたいのを素直に喜ばずに、わざとらしく言うと、  「当然でしょ…おまけ付きだけど…」 と玉珠はムキになって言った。藤次郎は包みを受け取り開けながら、ふと、  「…おまけ?」 と言いながら、包みの中のチョコレートの箱の中におまけらしき物など見あたらず、怪訝 に思い、藤次郎はテーブルの向こうに嬉しそうな顔をして頬杖をついて藤次郎を見つめる 玉珠の顔を見やった。そして、藤次郎は玉珠の首に巻き付けてある真っ赤なリボンを目敏 く見つけ、  「…まさか…おまけって、”お玉”かよ?」 と怪訝そうな顔をした。  「悪い?」 と言う玉珠の目つきが途端に鋭くなっていた。  「いいえ…全然…」  玉珠の気迫に押されて藤次郎が答えると、  「じゃ、受け取ってくれるわね」 と言って、玉珠は微笑んだ。それを聞いて藤次郎は畏まって。  「はい、喜んで」 と言うと、玉珠はいっそう喜んだ。しかし、藤次郎は、玉珠の首を飾っているリボンをあ らためてしけしげと見ながら、  「でも、やっぱりそのリボンは…それは”萌え”と言うよりは、”萎え”だな!」 とボソリと言うと、  「なによ!」 と言って、玉珠はむくれた。  「まぁ、機嫌を直して…」 と言いながら、藤次郎は玉珠から貰ったチョコレートの箱を開けた。  「オオ!手作り…」  「頑張ったのよ!」  驚いて歓喜の声を上げる藤次郎に玉珠は喜んで自慢した。  「ありがとう」  「どういたしまして」  お互い顔を見合わせて微笑むと、藤次郎は思い出したように立ち上がり、不思議に思っ ている玉珠に背を向けると、  「チョコレートには、ブランデーがいいなぁ…おっと、丁度叔父きから貰ったいいブラ ンデーがまだ残っていたはず…」 と言いながら、藤次郎はキッチンの戸棚を物色しだした。  「いいわね」  そういって玉珠は期待して待っていた。  「あまり残ってないのと、ブランデーグラスがないので、ワイングラスで勘弁!」  キッチンから戻った藤次郎が残り少ないブランデーの瓶とワイングラスを取り上げて示 すと、  「仕方ないわね」 と、どちらに対して「仕方ない」と言ったか判らないが、玉珠が苦笑いしながら応じた。 そして、藤次郎と玉珠は、ブランデーを注いだワイングラスで乾杯した。  ブランデーから、やがてウイスキーに替わる。  お酒が入って、酔った玉珠は藤次郎にしなだれかかる。藤次郎は玉珠の後ろからそっと 抱きしめた。  「ねぇ、藤次郎」  玉珠は藤次郎の手を自分の手で覆いながら、藤次郎の方を振り向かずに言った。  「何?」  藤次郎は玉珠の顔を覗き込むように訪ねる。  「さっき駅でね、藤次郎を見つけたとき、なんか…なんて言うか、心臓がドキドキして …なんか、なんかね…運命を感じちゃって…だって、チョコ今日渡せると思ってなかったもの…」  しどろもどろに言う玉珠のいじらしさに藤次郎も胸がキュンとなって、玉珠を抱きしめ ていた腕に力が入った。  「藤次郎…さっき藤次郎が羽織わせてくれたコートと同じ香りがする…」  当たり前と言えば当たり前なのだが、この玉珠の会話には藤次郎も絆を感じた。しかし、  「なんか、オヤジ臭いから、今度コロンでも見繕ってあげるね」  微笑んで藤次郎に振り返った玉珠に  「…コノ!」  藤次郎は苦笑した。 藤次郎正秀